平成21年の門前掲示板


平成21年12月の門前掲示

明日がわからないから 希望と祈りがある

 前總持寺貫首、板橋興宗禅師の言葉です。

 明日がどうなるかなんて、誰にもわかりません。だから希望がある。そして祈りがあります。
 祈る姿そのものが宗教であると、禅師様はおっしゃっていました。


平成21年11月の門前掲示

ゆったりで いいんだよ

 今の世の中、なんだかせかせかしていますね。

 周りがせかせかしていると、自分もせかせかしなくてはいけないような気がしてきてしまいますね。
 でも、急いでやったからと言って、効率が上がるわけでもないんですよね。

 私は、車を運転している時、割り込みなどのマナー違反があると、すぐイライラしてしまいます。そんなとき、自分に「いいんだよ、ゆったりでいいんだよ」と言い聞かせるようにしています。そうすると、落ち着いた心が戻ってきます。

 ゆったりいきましょう。急がなくてもいいんです。ゆったりでいいんです。



平成21年10月の門前掲示

えがおで あいさつを しよう

 「みんなのたあ坊の 菜根譚」から引用です。

 以下のようなコメントがついていました。
 「あいさつは人とのコミュニケーションのはじまり。
 だまったままでは、相手に何も伝わらないよ。
 まず、自分から明るい笑顔であいさつしよう。」


 私は、毎朝、ウオーキングを兼ねながら、近くにある寺社にお参りをしています。1時間くらい歩いてまわります。
 私の寺の近くには、公園があるためか、毎朝、多くの人がウオーキングやジョギングをしています。また、高校のサッカーグラウンドもあり、早朝練習のため、自転車でグラウンドに向かう高校生の姿も見られます。
 私がウオーキングを始めた頃、驚いたことがあるのですが、このようなウオーキング、ジョギング、グラウンドに向かう高校生、みんな私に「おはようございます」と挨拶をしてくれたことでした。面識のない人から挨拶をされる、というのは不思議な感じがしましたが、とても気持ちが良いものです。今では、自分から挨拶をするようにこころがけています。

  『碧巖録』に「垂示に云く、玉は火を將て試み、金は石を將て試み、劍は毛を將て試み、水は杖を將て試む。衲僧門下に至っては、一言一句、一機一境、一出一入、一挨一拶に深淺を見んことを要し、向背を見んことを要す。」とあります。この「一挨一拶」が「挨拶」の語源であるといわれています。  「挨(あい)」には、「押す、背中を叩く、開く、押しすすむ」という意味があります。「拶(さつ)」には、「責める、迫る、はさみつける、押しつける」という意味があります。両方ともに「押す」という意味があることから、禅宗ではこれらを並べて、門下の弟子僧の悟りの深さを試すための問答のことを「一挨一拶(いちあいいちさつ)」といいます。問答は「複数で押し合う」という意味ですので、それを日常生活にあてはめて、安否や寒暖のことばを取り交わすなどのお互いの儀礼をあらわすようになったようです。後に略されて「挨拶」となり、おじぎや返礼のことも「挨拶」というようになったといわれます。

 あいさつは、とても気持ちのいいものです。みなさんも、笑顔で元気にあいさつをしてみましょう!!



平成21年9月の門前掲示

上達の秘訣は、それを好きになる事である

 2年生になった息子が、この夏休み、自転車に乗れるようになりました。
 運動神経の鈍い息子ですが、練習をはじめて、わずか1週間ほどで習得してしまいました。
 息子は、とても楽しそうに練習をしていました。練習すればするほどうまくなる、その過程を楽しんでいるようでした。
 やっぱり、上達の秘訣は、それを好きになる事なんだなぁ、と思いました。

 お経を読むとき、木魚を用いることが多いですが、「祈祷太鼓」といって、お経に合わせて太鼓をたたくことがあります。この太鼓は、修行してきたお寺により、叩くお寺あるし、叩かないお寺あります。また叩くお寺に修行に行ってもお寺や指導者により叩き方が違ったりなど、個性とセンスが出ます。私は、本山では太鼓を叩きませんでしたが、近くのお寺の和尚さんが叩いているのを聞いて、「すばらしい。私もやってみたい」と思い、その和尚さんに教えてもらいました。その後、毎日のように叩いています。太鼓は叩くと気持ちが良く、ストレス解消にもなります。

 先日、友人が住職をしているお寺の法要で、祈祷太鼓を頼まれました。法要後、その友人に「太鼓、上手だねぇ」とほめられました。そこの檀家さんにも「とてもよかった」といわれました。私としては好きでやっているだけなので、自分ではうまいもへたもわからないのですが、いつのまにか上達していたんだなぁと、びっくりした次第です。

 「好きこそ ものの 上手なれ」ということわざもありますが、何かに取り組むときは、それを好きになることが上達への近道だと思いました。



平成21年8月の門前掲示

幸せな人ほど 不満が出る

 詩人の「きむ」さんの言葉です。

 全文を紹介します。
 「幸せな人ほど不満が出る
  人間には欲があるけど
  たまにはね、今ある幸せ
  数えてみたら両手両足じゃ
  絶対に足りんで
                  きむ」

 仏教の教えに「少欲知足」という言葉があります。欲を少なくし、足りている事に気付け、という意味です。
 私がお通夜の時に読むお経「佛遺教経」というお経の中に、「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し。少欲の人は無求無欲なれば すなわち 此のうれい無し」又、「不知足の人は富めりといえども貧しし 知足の人は貧しといえども 富めり」とあります。

 不満ばかり言っていないで、今、幸せの中にいることに気づきましょう。



平成21年7月の門前掲示

半ば真実こそ極悪の嘘である。

 イギリスの詩人テニソンの言葉です。

 根拠のない嘘は、すぐに見破ることができますが、途中まで本当の事を言った後の嘘は、信じてしまいそうになります。
 テニソンさんも、こういう嘘に振り回されたのかもしれませんね。



平成21年6月の門前掲示

明歴歴 露堂堂 (めいれきれき ろどうどう)

 曹洞宗ご本山「總持寺」内の、僧侶の研修室に、「露堂堂」の額がありました。
 東陽英朝(1428−1504)編『禅林句集」に「明歴歴露堂堂」と出てきます。

 「明歴々 露堂々」とは、 「真理は、いささかも覆い隠すことなく、そのままはっきりと現前している」ということです。心眼を開けない人にははっきり現前しているはずの真理に全く気が付かない、ということです。

 心の眼で物事を見てみましょう。



平成21年5月の門前掲示

莫妄想  (まく もうぞう  −−もうぞうすることなかれ)

 「莫妄想(まくもうぞう)」という言葉は、私が本山修行中、当時「後堂」という役職についていた長谷川文丈老師が、よく口にしていた言葉です。
 もともとは、汾陽無業禅師(760〜821)の言葉で、無業禅師は、一生の間、修行僧の質問に、ただ「莫妄想」の一句をもって答えたとされています。禅師はまた、もし、人がこの一句をよくよく徹しきったならば、元から具有している智慧や徳相が、たちまちに現前するだろう、と示しています。

 仏教的な「妄想」とは、「二見にわたる分別心」をいうそうです。「莫」は、ない、ということです。
 人は、「損・得」「長・短」「清潔・不潔」「善・悪」「明・暗」など、物事を二つの事象に分けて認識したがりますが、その境目はどこでしょう?そう、境目などないのです。それに気づきなさい、分け目を取り払いなさい、ということなのでしょう。

 夢窓疎石(1275〜1351)の言葉を引用します。「浄土と穢土に隔てがあって、迷いと悟り、凡夫と聖者が同じではないと思うのは妄想である。聖者と凡夫の隔てもなく、浄土と穢土との区別がないと思うのもまた妄想である。仏法に大小・権実・顕密・禅教の差別があると思うのも妄想である。仏法は1つで平等であり、全てに勝れていることも劣っていることもないと思うのも妄想であり、行住坐臥・見聞覚知、これこそ仏法であると思うのも妄想である。一切の行いや働きを離れて別に仏法があると思うのも妄想である。一切の法は、皆これ実際に存在していると見るのは凡夫の妄想である。一切の法は、皆これ無常であると見るのは小乗仏教の妄想である。一切の法の上で、永遠であるとも、継続性がないという見解を起こすのは、仏道以外の者の妄想である。或いは、幻のようで空であると知り、或いは中道の実相を悟るのは菩薩の妄想である。教外別伝の宗旨があることを知らずに、教えに執着するのは教学仏教者の妄想である。教外別伝だとして、教学よりも勝れる法門があると思うのは、禅僧の妄想である。」



平成21年4月の門前掲示

春来草自生 (はる きたって くさ おのずから しょうず)

 春になり、桜の花が咲き始めました。

 寺の庭の草も、ぐんぐん伸びて、これから草むしりが大変な季節です。

 庭の草を抜きながら、「この草、去年もここに生えていたなぁ。同じ草だけど、違う命を持った草なんだなぁ」などと思いながら抜いています。

 春が来れば、誰に頼まれるわけでもなく、自然に草が生えてきます。花も誰に頼まれることなく咲きます。それが命です。ありがたいことです。



平成21年3月の門前掲示

何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ

 マラソンランナー高橋尚子さんの座右の銘で、岐阜商業高校時代の恩師、中沢正仁さんの言葉だそうです。
 「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」のあとには「やがて大きな花が咲く」と続きます。

 今の時代、何でも目先の結果や成果ばかりを優先し、努力したり、時間がかかることをしたがらない傾向にあるような気がします。
 ゆっくり時間をかけ、努力した方が、すぐに出る結果よりも大切だと思います。

 受験の結果が発表になる時期になりました。希望の学校に合格できなくても、新しい環境の中で、ゆっくり時間をかけ、根を伸ばしていくのも良いと思います。なかなか咲かなくても深く張った根っこがあれば、倒れることはありません。必ず大きな花が咲く時が来ます。




平成21年2月の門前掲示

人は誰でも いつか、おくりびと おくられびと
 
 昨年、「おくりびと」という映画が上映されました。
 遺体を棺に納める"納棺師"。一見地味で触れ難いイメージの職業をテーマにしながらも、ユーモアを絶妙に散りばめて、愛すること生きることを紡ぎだす異色の感動作。ひょんなことから"納棺師"になった主人公が、さまざまな死に向き合うことで、そこに息づく愛の姿を見つめていく(映画解説より)、という映画です。
 この映画のキャッチコピーが、「人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと」でした。

 「おくりびと」というのは、この話に出てくる納棺師や葬儀屋さん、僧侶、そしてご遺族のことでしょう。そして「おくられびと」というのは、死者の事です。

 人は必ず死にます。家族が亡くなれば遺族になるし、あなた自身も、必ず死にます。
 誰もが、「おくりびと」になり「おくられびと」になるのです。

 2月15日は、お釈迦さまのご命日「涅槃会(ねはんえ)」です。死について静かに考えてみましょう。

※この言葉を掲示中の平成21年2月23日、「おくりびと」が、アカデミー賞外国作品賞を受賞しました。この受賞を機会により多くの方が、この作品に触れる事ができることを願っております。



平成21年1月の門前掲示

牛の如く黙々と
 
 夏目漱石明治34年3月21日の日記に、
 「自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実に行へ。汝の現今に播く種はやがて汝の収むべき未来となって現はるべし」
 とあります、そこからの引用です。

  「寶鏡三昧」というお経の中に、「潜行密用(せんこうみつよう)は愚(ぐ)の如く魯(ろ)の如し」とあります。「潜行密用」とは、人知れず密かに善い行いをするということです。
 善い行いは、自慢することなく、黙々と続けて行いなさい、という教えです。

 今年は丑年です。牛の如く、黙々といきましょう。



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