平成18年の門前掲示板



平成18年12月の門前掲示

米あまる世となりたれど 一粒に仏の宿る思いなお持つ

 先日、ニュースで、今年は白菜が豊作になりすぎたので、出荷を調節し、余った白菜を捨てている、と報道していました。
 その後、新聞の投書欄に「白菜が豊作なら、事前にその情報を国民に伝え、みんなで白菜をたくさん食べるよう努力・工夫すればよい」という意見が出ていました。
 本当にその通りだと思います。
 白菜だって、ひとつひとつ大切な命なのです。無駄に捨ててしまってはもったいない。

 食べ物に対する感謝の気持ちがどんどん薄れてしまっているのはとても残念な事です。
 「お米一粒一粒に仏様が宿っている」という心、持ち続けていたいですね。



平成18年11月の門前掲示

未来をイメージして 今を生きているか?

 何かのテレビCMで、ロック歌手の矢沢永吉さんが、こんな事を言っていました。
 かっこいいセリフですね。

 何か目標を立てて生きていく、ということはとても大切な事だと思います。

 ...などと言いながら、私自身も未来がイメージできていないなぁ。自分の未来をイメージするって難しいですね。



平成18年10月の門前掲示

しあわせになるじゅもん 「ありがとう」

 何に対しても感謝の気持ちを持つことは大切です。
 感謝の気持ちが幸せの鍵です。



平成18年9月の門前掲示

からっぽないれものが 一番大きな音をたてる

 よく吠える犬ほど弱い、という話を聞いたことがあります。
 人間も、中身のない「からっぽ」な人間ほど、自慢や、ヒトの悪口を言うものです。
 自分に自信がないから、自慢や悪口ばかりを言うのです。

 自分を磨き、自信をつけましょう。自慢や他人の悪口を言うもんじゃありません。



平成18年8月の門前掲示

今日もまた 我が生涯の 一日なり

 福沢諭吉のことばです。
 人生に同じ日は二度ときません。毎日は同じ事の繰り返しのようですが、昨日も、そして今日も、かけがえのない生涯の一日なのです。



平成18年7月の門前掲示

日常生活がそのまま 仏道修行である

 「従容録」という本に「地蔵種田の話」というのがある。
 「地蔵」とは地蔵菩薩のことではなく、中国の僧侶の名前。
 南方から来た僧、紹修は、地蔵和尚に「南方の仏教はどうか」と聞かれ、「南方では問答が盛んだ」と答えた。それに対し地蔵和尚は「うちでは、田を耕し米を作り、それを飯に炊いて握り飯にして食べている(日常生活をしている)」と言った。
 紹修和尚が「それでは肝心の仏法はどうなる」と聞いたところ、地蔵和尚は「キミは今まで何が仏教だと思っていたのだ」とたしなめた、という話です。
 文才のある者は文章で、弁の立つ者は弁舌で生活する。しかし、僧堂では煩悩を断つ行に熱心なわけではない。法悦を得ようと積極的でもない。ただメシを食ってウンコをする日常生活があるだけだ。
 頭でどうこう、口でなんとかではない。日常生活の実践こそが仏道修行なのだ。

 これは中国のお坊さんの話ですが、お坊さんでないみなさんも、もちろん、日常生活がそのまま仏道修行だと思います。そうやって考えると、テレビを見ながら食事を取ったり、いい加減に掃除をしたり、なんてできないですよね。


平成18年6月の門前掲示

現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である

 フランスの哲学者でノーベル文学賞受賞者のアンリ・ベルクソンの著作『物質と記憶』からの言葉です。
 「純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ」

 あなたが「いま」と言葉に出して言ったとします。しかし、「いま」と言い終わった時にはそれはすでに過去になっています。
 あなたが「いま」という言葉を聞いたとします。しかし、「いま」と聞き終わった時には、それはすでに過去になっています。
 そういうことを言っています。

 アンリ・ベルクソン氏は、今からおよそ百年前の1896年にこの言葉が書かれた『物質と記憶』を著しましたが、実はこの事実、すでに2千年前にお釈迦さまが気づいていたことです。
 「仏教は古い」と思われがちですが、仏教は哲学の最先端をいっているのです。今も心理学や脳科学で「新しい事実が発見された」などと言っているような事も、実は2千年前にお釈迦さまが言っているような事だったりするのです。




平成18年5月の門前掲示

所有するということの3つの苦
 1.欲しいと思う苦
 2.失うことを恐れる苦
 3.失うときの苦


 物を持つということには苦がつきまとうものです。
 みなさんも、上記のような「苦」を何度となく経験していることでしょう。

 道元禅師は「放てば手に満てり」と教えています。しっかりと握っているうちは握った物だけが自分のものですが、手を開いてその握りしめたものを放ち開いたとき、その手には全世界が乗ることになります。
 執着を捨てたとき、真に満ち足りた心を得ることができるというのです。



平成18年4月の門前掲示

できないなんて 思わずに 挑戦してみよう

 何かをはじめようと思っても、「自分にはできない」と思っては何もはじまりません。人生は1回きりです。今やらなくて、一体いつやるんですか?
 今、様々な分野で「一流」と言われている人が、みな最初から強い体だったり、素質があったわけではないんだと思います。
 それに素質があっても、自分でそれに気づかずにいるだけかもしれません。
 年度初めの4月です。何かを始めるには良い機会です。無理だと思わず、何事にもチャレンジしてみましょう。


平成18年3月の門前掲示

人からの批判は、物の道理がわかる人からの批判を気にするべきである

 正法眼蔵随聞記1−1に「はずくんば明眼の人をはずべし」とあります。「人の批判を気にするなら、物の道理が見通せる人からの批判を気にすべきである」という意味です。

 さあ何かをしようとしたとき、批判はつきものです。でも、そんな時は世間の感情的だったり、ねたみの気持ちから出るような批判は気にせず、道理のわかる人からだったらどう批判されるか、について考えるべきだと思います。


平成18年2月の門前掲示

自分の後ろ姿は 自分では見えない

 先日、地元静岡で「相田みつを展」が開かれており、見に行ったのですが、そのとき展示されていた作品の中で印象に残ったのが、「自分の後ろ姿は自分じゃ見えないんだよなぁ」という言葉でした。
 顔よりも背中の方がその人の生き方を雄弁に語っているのではないかと思います。顔は、その場をうまく取りつくろったりごまかしたりできるかもしれませんが、背中までは意識がまわりません。役者さんも背中で芝居ができたら一流というじゃないですか。

 みなさんはどんな背中をしているでしょうか?



平成18年1月の門前掲示

やり直しのきかぬ この人生
  だがこれからの生き方を変えることは出来る


 人生やり直しはききません。巻き戻してやり直せたらいいのに、と思うこともありますね。私も何度もあります。しかし、時間を巻き戻すことはできません。
 「これは失敗したなぁ」と思っても、なかなか軌道修正できず、だらだらと「失敗した後の人生」を送ってしまうものです。新年ですので、これを機会に、ここでひとつ新しい気持ちになって、これからの生き方を変えてみようではありませんか!


戻る